戸倉、幸せの牡蠣

「南三陸戸倉っこかき」は、環境を改善しながら、社会と経済の質を高めることに努めた結果、2016年、日本国内で初めて「責任ある養殖により生産された水産物」として、ASC認証を取得しました。きっかけは、志津川湾の漁師たちが、海にも限界がある、というこを知ったことからでした。

海の限界を、
知る。

1960年代から盛んになった志津川湾の牡蠣養殖。養殖のいかだを増やせば増やすほど生産量は上がっていった。しかし、その後牡蠣の成長はスローダウン。牡蠣を育てる植物性プランクトンが豊富な志津川湾も、過度な養殖で海への負荷が大きくなってしまったのだ。牡蠣のタネを入れてから出荷までの期間が1年から2年、3年と延び、漁師たちは海の限界を目の当たりにした。

100年先も、
続けられる漁をしよう。

2011年3月11日、東日本大震災。南三陸も津波に襲われ、そこにあった暮らしは、何もかもなくなってしまった。全て流されてしまったけれど、幸か不幸か海は元に戻った。牡蠣の養殖が盛んになる前の海に。牡蠣の養殖を生業としていた34人の漁師たちは、あらためて海と、そしてお互いと膝を付け合わせ、語り合った。これから目指すべきは、自分たちの次の世代も、その次も、ずっとずっと続けられる牡蠣養殖だと。

決断。

収入が大幅に減ってしまうことも覚悟して、漁師たちは牡蠣の養殖のいかだの数をこれまでの3分の1に減らす決断をした。漁師とひとくくりにいってもまだ若い漁師からベテランまで、世代も様々。まだまだ経済力が必要な若い漁師には、ベテランが配慮してくれ、それぞれのいかだの数のバランスをとった。漁師たちのコミュニティー自体がひとつ大人になり、暮らしに応じてお互いの経済を思いやるようになった。

のびのびと育つ牡蠣。

生産量を減らしたことで、牡蠣の海での暮らしが穏やかになった。すると、これまで2〜3年かかっていた出荷までの時間が1年に短縮できるほどの成長を見せたのだ。栄養と酸素が十分に行き渡たり、適正な生産密度で生産できるようになったから。さらに、漁師たちは、養殖によるプランクトンの消費量を算出するなどの海水成分調査をしたり、養殖に必要な燃料の消費量を一定量に抑えるなど、共通ルールを設定したりして、牡蠣がのびのびと暮らせる環境を整えていった。

牡蠣は牡蠣らしく、
人はより人らしく、暮らす。

Photo:浅田政志 (c)南三陸 “がんばる”名場面フォトプロジェクト

のびのびと育つ牡蠣は、とてもおいしく育つようになった。漁師たちは、牡蠣と対話しながら、手塩にかけて育てることで、誇りをもって牡蠣を送り出すことができるように。管理するいかだの数も以前より少なくなったことで、暮らしに余裕が生まれ、家族や地域と関わる時間が増え、豊かな時間を過ごせるようになった。

今、南三陸の漁師たちは、地域で誇りを持つ仕事をしながら、日々心豊かに暮らしている。そんな漁師たちに育てられ、牡蠣たちも、幸せに過ごしている。